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福田慎一著 「21世紀の長期停滞論」 [読書感想]

21世紀の長期停滞論 -日本の「実感なき景気回復」を探る
福田慎一 著 平凡社新書(Kindle版) 2018.01.15 初版発行

【構成】
はじめに

第1章 「長期停滞」という新たな時代へ
第2章 なぜ、長期停滞は起こったのか
第3章 日本の「実感なき景気回復」
第4章 長期停滞論からみた日本の景気
第5章 長期停滞下での経済政策
第6章 なぜ、構造改革は必要なのか
第7章 少子高齢化が進む日本の現状
第8章 イノベーションは日本を救うか
第9章 財政の持続可能性を問う
終 章「豊かな社会」を実現するために

あとがき

****

 この著書は、
   ・「サマーズの長期停滞論」の視点から、世界経済の低成長の説明(第1章、第2章)
   ・経済の長期停滞論から見た日本経済の状況(第3章~第5章)
   ・日本経済が長期停滞脱却するための構造改革の必要性(第6章~第9章)
そして、終章で「GDP成長を目標」とする経済の見方に対する疑問を呈している。

 終章で提示されるように、「GDPの成長」が究極の目標ではなく、「豊かさ」が目標であるとすれば、長期停滞といわれる現状への対処も変わる。つまり、「なぜGDPは成長しないのか、どうすれば成長するのか」を問うよりも、「「豊かさ」という目標に対してどんな問題があるのか、その解決策は何か」、あるいは「パイ(GDP)が不足しているのか」それとも「パイの分配に問題があるのか」を問うべきなのだが・・・。
 「最も望ましくない政策」は、財政赤字を拡大させて公共事業を拡大したり、需要の先取りをしたりて、現在のGDPの数字を無理やり引き上げていかにも政策が成功しているように見せ、課題や弊害を後の世代に押し付けるような政策である。

 本書では、「長期停滞」下の日本経済の課題として、急速に進行する「少子高齢化」と巨額に累積した「財政赤字」を挙げている。これを解決するために「構造改革」が必要としているが、何をどのように改革すればどのように解決できるのか、明確には示されていない。

 少子高齢化の問題は、一方で労働人口が減少し、他方で高齢人口の増加による社会保障費の増加である。これに対処するには、イノベーションにより生産性を高めることが必要であることは確かだ。
企業側から見ると、少子化による労働人口の減少を生産性の向上で補って生産力を維持することが目的となる。

 しかし、高齢人口増加による社会保障費の増加問題を解決するという観点からは、これだけでは不足である。生産性向上で企業が生み出す産出の増加分から、(企業に直接課税するかあるいは賃金の増加分に課税するかして)増える社会保障費にまわさなければならない。そうすると、日本の企業には減少する労働人口と増加する社会保障費の両方を負担しながら、国際競争力を維持するだけのイノベーションが求められる。

 現状では、このような企業への負担増加は「企業の海外逃避」の恐れを生じる。政治は国別、経済はグローバル化という現状の問題点は、政治が国際化した企業を統制できず、どの国でも企業に必要な課税ができないことにある。これは一国で解決できる問題ではなく、国際的な協調が必要であり、協力しない国は排除するような国際的な仕組みが必要となる。

 政府の累積債務については、「プライマリーバランス」をとるのが先決で、財政赤字で債務を累積させながら累積債務をどうしようかと論じても意味がない。
 債務をどこまで累積可能かについては、「状況次第」。日本が経常黒字を出し続け、(日銀ではなく)民間が国債を消化できる限り、どこまでも累積可能かもしれない。

 しかし、これと返済可能性とは別で、既に「まともな方法で」返済可能な範囲を超えている。
 民間が消化した国債を半永久的に償還しないで済めば、それは事実上徴税したのと同じで、しかも「税は負担できる者が負担する」という好ましい徴税の仕方になる・・・。




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川端祐人著 「我々はなぜ我々だけなのか」 [読書感想]

我々はなぜ我々だけなのか -アジアから消えた多様な「人類」たち
川端裕人 著 海部陽介 監修 講談社ブルーバックス 2012.12.20 初版発行

【構成】
はじめに
プロローグ 「アジアの原人」を発掘する
第1章 人類進化を俯瞰する
第2章 ジャワ原人をめぐる冒険
第3章 ジャワ原人を科学する現場
第4章 フローレス原人の衝撃
第5章 ソア盆地での大発見
第6章 台湾の海底から
終 章 我々はなぜ我々だけなのか
監修者あとがき

****

以前は、アジアの化石人類と言えば、ジャワ原人 Homo erectus erectus(以前は「直立猿人 Pithecanthropus erectus」と呼ばれた)、北京原人 Homo erectus pekinensis がすべてで、彼らがその後どうなったのか、恐らく新人が出現する前に絶滅していたと何となく考えていた。2003年にインドネシアのフローレス島で体長1m程度、脳容量も小さい小型の人類化石が発見され注目された。


本書は、主として本書の監修者海部陽介氏の調査研究に基づく、アジアの化石人類研究についてのルポルタージュ風解説書。
化石人類史といえば、アフリカ大陸におけるホモサピエンス登場までの進化史、ホモサピエンス「出アフリカ」後の拡散の歴史がほとんどの中で、本書は、アジアにおける化石人類研究の現状を俯瞰する貴重な本である。

本書によれば、ジャワ原人は、当初発見された120万年前~80万年前の化石から、断続的に5万年前までの化石が発見されている。アフリカの化石人類と異なり、この間原人→旧人→新人といった方向への進化はしていない。
    前期のジャワ原人(サンギラン、トリニール)  120~80万年前
    中期のジャワ原人(サンブンマチャン)         30万年前
    後期のジャワ原人(ガンドン)            10~5万年前

フローレス島で発見された小型の人類、フローレス原人(Homo floresiensis)は、当初12,000年前頃まで生存していたとされたが、最近の研究により5万年前に訂正された。また、同島の他の場所ソア盆地から発見された化石により、70万年前にはすでに小型化されていたことがわかった。
彼らがジャワ原人から進化したのか、あるいはより小型の現生人類から進化したのか、論争があるが、100万年前頃までにフローレス島にやってきたとされる。
フローレス島はオーストラリア区に属し、彼らがアジア区側からどうやって海を越えてオーストラリア区側に渡ることができたのかも謎とされている。

一方、北京原人は40万年前までに消滅したとされるが、台湾海峡の澎湖島の海底から、人類の下顎の化石が発見された。地引網に引っかかって引き上げられたとされるが、それが何年のことかは書かれていないので分らない。2008年頃から研究が始まり、2015年に「アジア第4の原人」とされた。19万年~13万年前程度とされる。

この他、中国の和県から出土した原人と考えられる化石が出土している。
「中国の旧人」については、名前だけで内容は具体的に示されていない。
これらは、未だ正式な分類がなされていない。

つまり、ホモ・サピエンス拡散以前のアジアの化石人類の研究については発展途上というより発展が開始されたところであり、今後が期待される。


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鯨岡 仁 著 「日銀と政治 暗闘の20年史 [読書感想]

日銀と政治 暗闘の20年史
鯨岡 仁 著 朝日新聞出版 刊 2017.10.30 初版発行


【構成】
まえがき
序章 「独立」した日本銀行
第1章 ゼロ金利解除の失敗
第2章 量的緩和の実験
第3章 リーマン・ショックと白川日銀
第4章 日銀批判のマグマ
第5章 レジーム・チェンジ
第6章 異次元緩和の衝撃
第7章 金融と財政、「合体へ」
あとがき


「金融政策は紐のようなものであり、引くことはできるが押すことはできない」-。金融政策について語るとき、こんな比喩を良く使う。
「インフレのときには金利を上げて引き締めればよい(紐を引く)が、デフレのときに物価を金融政策で押し上げる(紐を押す)のは難しい」(第1章 p.49-50)

この本は、「紐を押せ!」と要求するリフレ派・マネタリストの政治家・エコノミストと、「紐を押しても効果はない」と否定する速水優・白川方明などプロパー日銀総裁の「論争史」を時系列に解説したものである。
「あとがき」で著者が書いているように、評価や批判を避けて、「政策が誰の手により提唱され、どのような力学で決められ、実行されていったのかを克明に記録する」ことを目的としている。

※ 19世紀資本主義の登場から現在までを通して見れば、戦後先進国復興期の、需要が供給を上回ることから生じた「高度成長」、それに伴う「継続的な物価上昇」は「例外的な状況」であった。しかし、最近までの主流派の経済学は、この「例外的な状況」に基づいており、多くの人々の経済観もそうであった。今でも「成長し続けるのが経済の正常な状態」とされている。
中央銀行と金融についていえば、
    ・資金は常に不足し、投資資金需要は常にある。     ・中央銀行は、金利操作により市場に供給されるマネーの量を調整することで、経済(の過熱と冷却)をコントロールできる。
とされていた。
しかし、経済のグローバリゼーションが進んだ現在、一方では市場に(あるところには)マネーがあり余り、投資先を求めている。他方では、需要の伸びは鈍く、その結果(実体経済の)投資資金需要は減り続け、マネーに対する「需要と供給の関係」で市場金利は下がり続けた。中央銀行は金利を下げれば経済を活性化できると信じて、実体経済の金利低下の後追いで政策金利を下げ続け、ついには「ゼロ金利」に達した。


日本が戦後、苦しんできたのはインフレであった。・・・物価の上昇に目を光らせるのが、これまでの政府・日銀の役割であった。・・・(デフレーションは)少女アリスが迷いこんだ「不思議の国」のようなものであった。(第1章、p.48)

東大経済学部小山ゼミの小宮隆太郎教授は、1973年~74年の狂乱物価論争で、金利操作だけに執着していた日銀に対して、「マネーサプライを適正な伸びに抑えるべきだ」と主張した。
小宮ゼミに学んだ山本幸三と岩田規久男は、小宮理論を延長していけば、「マネーサプライを増やすことができれば、物価を引き上げることができ、デフレから脱却できる」という結論に行き着くと考えた。
小宮本人は、山本や岩田の議論を否定した。小宮は、マネーサプライの抑制がインフレ退治に効果を発揮するが、逆に無理に増やしても、ゼロ以下となった物価指数を押し上げる効果はないと考えた。小宮の側についたのは、白川方明であった。

「マネーサプライ論争」(1992、第1章、p.81)
    岩田規久男:『日銀理論』(金利操作だけに着目した金融政策)を放棄せよ。
    翁邦雄:『日銀理論』は間違っていない。(第1章、p.75~76)

1997年6月11日、改正日銀法成立。これは中央銀行の政府からの独立性を高めたものである。(序章、p.39)

2001年3月16日、麻生財務相による「デフレ宣言」

日銀総裁の速水優は、量的緩和を導入した(2001年)3月19日の記者会見でこう(「長期国債の引き受けなど絶対にするつもりはない。これは法律でも認められていない・・・」)力を込めた。
このとき速水が量的緩和と同時に導入したのが「銀行券ルール」、すなわち、日銀が保有する長期国債の残高を、日本銀行券の流通残高以内に収めるという運用ルールである。(2001.03、第2章、p.95)

2001年、山本幸三、渡辺喜美、舛添要一らが「日銀法改正研究会」の初会合を開いた。・・・
研究会は、物価上昇率の目標を定めて金融政策を運営する「インフレ目標政策」の導入や、日銀総裁の解任権を首相に持たせるなどを盛り込んだ法改正に向けて、検討していくことで一致した。(第2章、p.104-105)

2001年11月20日の経済財政諮問会議「デフレ対策と不良債権処理」
    ・吉川洋、平沼赳夫は、デフレ対策を求める
    ・速水日銀総裁は、不良債権処理の優先を求める

2002年、速水日銀総裁:「(インフレ目標は)インフレを抑えるために使っているので、デフレを抑えるために使っているという例はあまり聞いたことはない」(第2章 p.119)

2008年「リーマンショック」
2008年12月01日、米バーナンキFRB議長は、「バランスシートを活用」するという言葉を使うことで、「量的緩和」や「信用緩和」などあらゆる措置を講ずる意思を示した。(第3章、p.182)

2009年11月20日、菅直人副総理による(二回目の)「デフレ宣言」

2009年、白川日銀総裁、「日本の(2001~2006年の)量的緩和のときも、FRBも、超過準備も流動性もたくさん供給しているが、そのこと自体によって物価を押し上げていくという効果は乏しい」(第3章 p.193)

2012年11月15日、自民党安倍晋三総裁は読売国際経済懇談会で、「2~3%のインフレ目標を設定し、それに向かって無制限緩和していく」(第4章 p.259)

2012年12月26日、第二次安倍内閣発足

2013年1月、政府が目指すべき「物価目標」を数値で設定して日銀と共有する。日銀が様々な金融政策の手段を用いてその目標達成をめざし、責任を負う。
この政策の背景には、経済学の「貨幣数量説」という考えがある。世の中に出回っているお金の総量とその流通速度が、物価の水準を決めるというものだ。安倍(首相)のブレーン(浜田宏一、岩田規久男、本田悦郎、中原憲久など)は、金融政策が中長期的には物価水準を決めることができる、という考え方を固く信じていた。
一方白川はこれとは対極にいた。白川は、物価は世に出回るお金の量で決まるというよりは、むしろ経済の供給力と実需の差「需給ギャップ」などを反映した結果だと考えていた。(第5章、p.282)

2013年3月4日、衆議院運営委員会での日銀総裁候補黒田東彦の発言:
日銀が2000年にゼロ金利政策を、2006年に量的緩和政策を、それぞれ政府の反対を押し切って止めた。黒田はこうした政策判断を「いまから見ると明らかに間違っていた」と指摘。日銀が長期国債を買う量を制限している「銀行券ルール」についても、「私が知る限り、日銀だけにしかないルールだ」として見直しを示唆した。・・・
「(目標)をいつ達成できるのか分らないのでは物価安定目標にならない。グローバルスタンダードでは2年程度であり、2年は1つの適切な目途だ」
「2年で2%」を公約にした。・・・
(副総裁候補)岩田紀久男の発言は過激だった。・・・「就任して最初からの2年で達成できなければ、責任は自分たちにある。責任の最高の取り方は辞職することだ」。(第5章 p.315)


論争の結果は第二次安倍政権の出現で「紐を押せ!」派の勝利に終わった。黒田東彦総裁・岩田規久男副総裁の日銀は、異次元緩和と称して「紐を押しまくった」。その効果の程は、物価の現状が示している。

2016年9月5日、黒田は共同通信社主催のきさらぎ会の講演で、金融政策決定会合でおこなう「総括的な検証」について「予告」的な説明をおこなった。
黒田が「検証のポイント」としたのは「2%の物価上昇率目標が達成できていない理由」と「マイナス金利の効果と影響」の二つであった。
異次元緩和の開始から3年半たったが、足元の物価上昇率(生鮮品を除く)は前年比マイナス0.5%に留まっている。黒田は、こうした物価低迷の理由として「原油価格の下落」「消費増税後の消費など需要の弱さ(本書によれば黒田は日銀の政策が財政ファイナンスではないことを示すために増税を主張した)」「新興国経済の減速」の3点を挙げた。
3つとも、日銀がコントロールできない「外的要因」である。裏を返して言えば、これらの外的要因がなければ、目標を達成していた、という意味でもあった。(第7章、p.395-396)

更に裏を返せば、物価が上昇しても、それは日銀の政策結果ではなく、「外的要因」のためかもしれない。
もし、黒田総裁の検証が正しいならば、「(日銀政策で)購買量は増加したが、(外的要因のために)物価は上がらなかった」となるはずである。
現在、安倍首相が必死に財界を説得して賃金を上げようとしているのを見れば、どちらであるかわかる。



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マクラウド流の経済学派の分類 [マクラウドの経済学]

マクラウドの経済学 -マクラウド流の経済学派の分類

H.D. Macleod "Economics for Biginners" より


 マクラウドによれば、古代ギリシャ・ローマの著者は一致して、交換可能性、あるいは売買可能性が富の唯一の本質であるとした。古代ローマでは、この売買可能なもの即ち富を3種類に分類した。それは、物質的なもの、労働、そして多種多様な抽象的権利(abstract right)であった。

 中世ヨーロッパでは、金銀だけが富であるとされていた。これが近世になると、「重商主義」に発展し、戦争と一般国民の窮乏化を招いた。

 その中から近代経済思想が生まれるが、(マクラウドによれば)試行錯誤の末に、再び古代の考えに戻るのである。

 H.D. マクラウドは、この近代以降から彼の時代(大体19世紀終わりまで)の経済学を、「富の定義」に従って三つの学派に分類した。


1.第一学派

 一般には「フィジオクラット」(日本では「重農主義」とも訳される)と呼ばれる学派で、近代経済学は彼らに始まる。

 マクラウドによれば、

 『最初の経済学者の第一学派は1750年頃フランスで生じた。当時この国は、ルイ14世の戦争、ロー(John Law)の紙幣計画の誤り、商業あるいは諸国間の生産物の自由貿易に対する禁制と妨害、そして法外に高い徴税システムの結果から、甚だしい悲惨さを蒙っていた。

 少数の高潔な哲学者たちは、彼らを取り巻く耐え難い悲惨さについて熟考し、人間の社会的関係について自然自体に基づく偉大な自然の科学、永遠の真実の幾つかの原理があるに違いなく、それに違反したことが、彼等の周囲に見る恐ろしい悲惨さの原因である、という思想を生み出した。彼らはこれを自然権(Natural Right)の科学と名付け、彼らの目的は、社会的関係におけるすべての人々の自然権についての理論的科学(abstract science)を発見し制定することであった。

 この科学は、人々と政府の関係、人々相互の関係、そして資産(property)との関係を包含した。彼らはこの偉大な科学を政治経済学(Political Economy)、あるいは国の調整の科学とも呼んだ。それゆえ彼らはエコノミスト、あるいは彼らの構成員の一人がその科学を "Physiocratie"という術語で呼んだことから、フィジオクラット(Physiocrates)と呼ばれた。』

 『フィジオクラットは、経済のシステムを「富の生産、分配、そして消費」と呼んだ。この語句は一体不可分のものであり、大地の産物の通商と交換を意味した。

 生産とは、大地からの原料生産物を入手して商業にもたらす。原料生産物は最終的に使用されるまでに加工され、別の場所に輸送され、一回以上転売されて、最終的な買手すなわち消費者の手に渡ることで完了する。これらすべての中間過程は取引あるいは分配と呼ばれた。最終的な買手である消費者は、彼自身の生産物を売ることでそれを手に入れる。すなわちこのシステムは、生産物と生産物の通商あるいは交換である。

 フィジオクラットは、富を大地の産物で通商にもたらされ交換されるものだけに限定し、生産者自身が消費する生産物を除外した。彼らは、労働と権利を富という術語から明確に除外した。なぜなら、労働と権利を富と認めることは、富が無から創造できることを認めることになると彼らは主張した。人間は何も創造できない、そして無からは何も現れないからである。

 彼らは、商業は国を富ますことだできないと主張した。なぜなら、それは等価なものと等価なものを交換するだけであり、その結果、販売による売り手の利得は国の富の増加ではないからである。

 彼らは、加工における職工の労働は不毛あるいは非生産的であると主張した。なぜなら、彼らの労働は生産物に価値を加えるが、それでも加工の過程の間に労働者は彼の生計を消費する。そして生産物の価値の上昇は、労働の間に消滅した生計の価値を表しているに過ぎない。それゆえ、価値の増加はあるが、富の増加物はない、と彼らは主張した。』


2.第二学派

 アダム・スミスに代表される、古典派経済学である。

 マクラウドによれば、

 『商業も加工業も国を富まさないというフィジオクラットの異常な学説は、(繁栄している国・地方は商工業の盛んな国・地方であるという)歴史の最も明白な事実と矛盾するので、ヨーロッパ中で彼らに対する反動が自然に生じた。』

 『スミスの著作は「生産と分配」から始まるが、彼はこの術語の創始者であるフィジオクラットにより使われた意味をよく知っていた。そして彼は、その目的は「交換可能な商品の価値を調整する原理を考察する」ことであると言った。かくして彼は「生産と分配」という術語の真の意味は価値の理論であると知る。』

 『フィジオクラットの学説を知ることなしに、スミスの著作の領域あるいは目的を理解することは不可能である。・・・スミスの著作の明白な目的と領域は、加工業と商業が不毛であり非生産的であるというフィジオクラットの学説への論駁、および、全ての労働は生産的であり国を豊かにすることの証明である。・・・そして、労働は全ての価値とすべての富の唯一の源泉であると考えられるようになった。・・・』

 『ここでは、スミスの一貫性のなさを示すことで十分であろう。富は「土地と労働の年々の産物」という考えから始めた後、人間の能力を、固定資本そして国の富の一部に含めた。かくして労働は富であると認め、経済学者の第二学派の全体は、労働を交換可能な商品と認めた。そして、労働の価値を物的商品の価値と同じように論じた。

 さて、人間の能力は確かに、「土地と労働の年々の産物」ではない。かくして、スミスはすでにフィジオクラットの学術用語から外れた。なぜなら、フィジオクラットは労働を富という術語から明白に除外したからである。科学の観点からは、経済学者の第二学派は正しい。・・・しかしそれは、科学の基本的な概念にとって非常に都合の悪い事柄である。というのは、我々は労働の「生産、分配、そして消費」をどのように語るのであろうか?』

 『それゆえ労働を富に生産、分配そして消費の科学に導入することは、非常に不都合なねじれをもたらした。しかし、それ以上に拙いことが残っている。というのは、スミスは流動資本という術語の下に、銀行券、為替手形その他の有価証券を明確に含めた。しかし、これらは単なる権利あるいは信用である。(※つまり、「土地と労働の年々の産物ではない。)・・・

 経済学の第二学派は、権利を富の種類の一つと認めたが、彼らはこれらの権利について、商業のメカニズムを少しも説明しようとしてこなかった。彼らは、信用と銀行の問題を科学の一般体系の中に導入することを全く試みなかった。

 このように、「富の生産、分配そして消費」という術語は、それが意味したように、交換可能な量がただ一種類であり、交換の種類が唯一の場合に適用されたときのみ理解できることがわかる。一方、第二学派は一致して、労働と権利を富と認めた。そして、それがどんなに真実を含んでいようと、それは第二学派のシステム全体にとって致命的であった。』


3.第三学派

 新古典派に至る学派である。

 マクラウドによれば、

 『1776年--スミスが彼の著作を出版したのと同じ年--に、フランスの哲学者コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac、1714.09.30-1780.08.03) は、彼の『商業と政府』("Le commerce et le gouvernement" )を出版した。これは全く同じ目的--即ち産業における商業と加工業がともに国を豊かにすることを示すことであった。彼は直ちに、経済の科学は商業の科学であるということから始めた。その結果として、フィジオクラットの富の生産、分配と消費としての考えを、一つには、ずっと単純でわかり易い形で、もう一つには、遥かに優れた一般的な形で表現した。・・・』

 『この科学において、富という術語は交換可能な商品に限定された。それが交換の対象である限り、あるいは交換の対象であるように目論まれている限り、そうである。この理由から、恐らく政治経済学は交換の科学と表現するほうが、国富の科学よりも便利である。・・・

 「富の生産、分配そして消費」という表現は、一種類の商品に適用されたときのみ理解可能であるが、他方、交換の科学という表現は全ての種類の交換に適用できることを示している。

 その上、この定義を適用することで、政治経済学あるいはエコノミクスがどのように自然科学であるのかが直ちにわかる。富の生産、分配そして消費という名前に、自然科学との類似を示唆するものがあるであろうか?しかし、交換の科学というもう一つの等価な定義を適用したとき、それが自然科学であると直ちにわかる。なぜなら、3の種類の交換可能な量があり、それゆえ6種類の交換が存在する。科学の目的は、これら交換についての現象の法則、すなわち、これら幾つかの量が交換する数的関係を定めることにある。天球の動作を支配する単一の一般法則があり、それが天体現象を全てを説明するように、交換可能な量の数的関係における全ての変化を支配する単一の一般法則があることを示すのは極めて容易である。かくして、我々は新たな自然科学を創造し、全て単一の一般概念に基づく現象の新たな体系を、一般法則の支配下にもたらした。』


〇マクラウドによる富の分類

マクラウドは、この「交換可能なもの」を次の3種類分類した。

1.Corporeal or Material Property (有形あるいは物的資産)

2.Immaterial Property (非物的資産) :労働あるいは人間の能力

3.Incorporeal Property (無形資産) : 通貨を含む権利(債権)

マクラウドは、この3種類の富の間で6種類の交換(1と1、1と2、1と3、2と2、2と3、3と3)があるとする。


【考察】

 現代の用語でいえば、マクラウドの富の分類のうち、1と2は実体経済に相当する「財・サービス」とまとめられ、3は金融資産に相当する。

 フィジオクラットが、富を「大地の生産物」に限定したこと、加工業(製造業)や商業が富を増さないとしたこと、自家生産自家消費を除外したことは、明らかに誤っている。しかし、彼らが(社会)経済システムを「富の生産、分配、消費」のシステムと定義したことは、(マクラウドの批判に反して)正しい。

 マクラウドの否定に反して、「労働」はサービスとして「生産、分配(取引)、そして消費」される。一方、第二学派(の一部)--それはマルクス主義に至るが--の主張である「労働が全ての価値の唯一の源泉である」という「労働価値説」をマクラウドは強く否定しているが、これはマクラウドが正しい。

 マクラウドの富の分類の3番目の「権利」は、「交換」あるいは「市場取引」(それも「二期間取引」とされるもの)のための手段あるいは媒体であって、生産・消費の対象ではない。確かに、スミスの『諸国民の富』は、体系立った内容ではないから、一貫性のなさもあるだろうが、「「富の生産、分配そして消費」という術語は、それが意味したように、交換可能な量がただ一種類であり、交換の種類が唯一の場合に適用されたときのみ理解できる」という批判は強引すぎる。生産・消費の対象である物的資産・労働と、流通媒体であり交換の場だけで使われるる金融資産(債権)は、同じように富として扱われるとしても、異なる性質を持っている。

 マクラウドや彼の言う第三学派--それは「新古典派」に至るのだが--経済学の対象を「交換」あるいは「市場取引」に限定し、生産と消費を対象から外したことには、19世紀当時の社会科学の状況がある。

 すなわち、前世紀における「ニュートン力学」の成功の余波である。僅かな定義と方程式で、天体の運行を説明し、予測できたことは、社会科学者にも「科学とはかくあるべし」という信念を抱かせた。マクラウドが経済を考察するとき、常に念頭に置いていたのは、ニュートン力学に倣い、経済を数学的に記述し、説明することであった。

 しかし、生産と消費を数学的に記述することは困難であり、最も容易なのが「市場取引」の場面であったのだ。ここでは取引対象のすべてが単一の指標である価値あるいは価格として表わされる。

 新古典派経済学は、難しい数学を駆使して「均衡理論」を完成させた。新古典派の均衡理論は、発展も衰退もなく、好況も不況もなく、100%の信用があるからマネーも金融も存在せず、時間の次元も存在しない。そして、それはほとんど役立たない。なぜなら、産業革命と資本主義以降の発展し変化する市場は均衡していないからである。

 にもかかわらず、市場の「均衡仮説」は信じられ、あるいは(誤って)市場経済検討の前提とされ続けている。

 新古典派以降の経済学では、生産は「供給」、消費は「需要」として、市場システムの外部から与えられる「与件」、その変動は「(外部)ショック」として扱われる。

 しかし、経済システムはフィジオクラットが説いたように「(富の)生産、分配、そして消費」のシステムであり、この「生産、分配、消費」は一体不可分である。分配(市場取引)の結果は、それが不均衡な場合、消費を変動させ、それは次の生産と分配に影響する。つまり、分配の結果は、市場変動の「内因」となる。

 さらに、社会全体でみれば、総産出を再投資と消費にどう分配するかが、社会的な利益率となる。消費の割合が大きいほど、つまり、生産性が高いほど利益率は大きくなる。その生産性の向上、イノベーションが生じるのは生産の場である。しかるに、市場取引だけを経済学の対象とすると、この利益率は根拠のない「与件」として与えられ、経済学の対象から除外されている。




日航123便事故 DFDR解析 [日航123便事故]

§ 日航123便事故DFDRの解析

 事故調の「急減圧」説に対する批判は多いが、事故調が「急減圧」の根拠とする、DFDRの記録に残された「証拠」に対する批判はあまり見たことがない。
 では、事故調のDFDR解読に反論の余地がないのかというと、(素人目で見てだが)疑問の余地はある。


1.事故調の「急減圧」説の要旨(『事故調査報告書』 付録4、p.56)
 
 (1) 事故発生+0秒、圧力隔壁の1列リベット部が破断して、圧力隔壁に1.8㎡の穴が開く。
 (2) 予圧された客室内から圧力隔壁の穴を通して、予圧されていない機体後部に空気が吹きだす。
 (3) 0.051秒後、APU防火壁が耐圧限界に達し、脱落する
 (4) 0.326秒後、垂直尾翼が耐圧限界に達し、破壊が始まる
 (5) 1.29秒後、客室内相対湿度が100%に達する
 (6) 1.656秒後、客室高度10,000ftに相当する圧力に到達する
 (7) 2.538秒後、客室高度14,000ftに相当する圧力に到達する
 (8) 6.8秒後、客室高度が外気圧力(24,000ft)に到達する、機内気圧は0.4気圧まで低下し
    気温は-40℃まで低下し、その間機内ではほぼ10m/sの風が吹いた。


2.事故調によるDFDR解析 
 事故調は、DFDRの記録から、上記の急減圧の証拠を読み取ることができたとする。
 事故報告書 3.1.7には、次のような説明がある。

 (1) 前後方向加速度(LNGG)
 18時24分35.70秒の前後方向加速度は、異常事態発生の前後に比べて約0.047G突出している。当時の重量を考慮すると、約11トンの前向き外力が作用したものと推定され、胴体後端部の破損がこの時刻付近で生じたものと推定される。なお、36.20秒以後の数秒間にわたって前後方向加速度は大きな変化を示すが、これは機体運動によるものと考えられる。

 (2) 垂直加速度(VRTG)
 18時24分35.66秒までは、ほぼ正常飛行状態を表す垂直加速度が記録されている。以後垂直加速度が36.16秒までわずかに増加し、36.28秒には約-0.24Gだけ跳躍し、その結果擾乱が始まっている。
垂直尾翼の破壊がこの時刻付近で生じたものと推定される。

 (3) 横方向加速度(LATG)
 24分35.73秒から35.98秒の間に、横方向加速度に最初の有意な変化が見られる。
 前後方向加速度突出直後の横方向加速度のこの変動は、尾部の破壊が35.73秒の以前で生じたことを裏付けるものと推定される。
 24分35.98秒以後、数秒にわたって横方向加速度に最大全幅0.08Gを超す振動が見られる。数秒後には完全に減衰していることから考えて、異常外力によって励振された自由振動と考えられる。

これら説明の基となる詳細な分析は付録6に記されている。


3.事故調による解析の疑問

【機体運動について】
 機体の垂直平面、すなわち前後方向と垂直方向の動きで最も重要なものは、ピッチ角、すなわち機首の上げ下げである。
 外力が働かない機体運動で、エンジン推力に変化がない場合、
 • 垂直方向については、ピッチ角(あるいは迎え角)が増えれば揚力(垂直加速度)が増加し、減れば揚力は減少する。
 • 一方、前後方向については、ピッチ角の増加は抵抗が増して、その分加速度は低下する。ピッチ角の変化で前後方向加速度が増加するのは、ピッチ角がマイナス(機首下げ)となって重力の加速度が進行方向に加わったときだけである。

【DFDR記録について】

 (1) 前後方向加速度
 事故調の説明では、35.70秒の前方向加速度の突出が、APU部の脱落で生じる前方への加速度の増加によるとしている。
 しかし、この加速度の増加は当然、客室内の予圧された空気が破損した圧力隔壁の穴から外気へ噴出したことによるもので、それがわずか0.1秒単位ほどしか続かなかったというのは考えられない。圧力隔壁に事故調がいう1.8㎡の穴が開いても、それは秒単位で続くはずである。
 一方、事故調が「36.20秒以後の数秒間にわたって前後方向加速度は大きな変化を示すが、これは機体運動によるものと考えられる。」としているが、36.6~36.7秒以後の時間帯にピッチ角が増加しているにもかかわらず、前方加速度が増加していることから、これが機体運動の結果とは考えられない。
 この36.6~36.7秒以後続く前方加速度の増加こそ、APU部が脱落して、圧力隔壁に開いた穴から予圧された客室内空気が後方に噴出していたことを示しているのではないか?
 つまり、APU部の脱落は、36.6~36.7秒近辺で生じたのではないか?
 (41秒以後の前方向加速度の増加は、エンジン推力の増加による)

 (2) 垂直加速度
 事故調は、「垂直加速度が-0.24G突出する36.28秒付近で、垂直尾翼の破壊が生じたものと推定される」としているが、もし垂直尾翼の破壊で与圧空気が上方に抜けて機体尾部に下方向の力が加わったとしたら、それは尾部下げ、機首上げのモーメントを生じるはずである。しかし、このとき機首は下がっている。
 そして、機首が下がれば、迎え角が減り、その結果揚力が減り、負の加速度が生じたのと同じ結果になる。つまり、これは予圧が尾部から上方に噴出したのではなく、「機体運動」によるものと考えられる。
 その後の垂直加速度の変化も、ピッチ角(迎え角)の変化と概ね一致ししている。

DFDR解析.jpg


 (3) 横方向加速度
 「35.98秒以後、数秒にわたって横方向加速度に最大全幅0.08Gを超す振動」が「異常外力によって励振された自由振動」というが、この(36秒~405秒)横方向の振動は、左右対称ではなく、右方向とやや左のほぼ中央との間で振動している。
 36.5秒~38.5秒の間、方向舵のペダル操作(PED)は、右に切られ続けている。機首方位はこの間僅かに右に変位している。38.5秒から40.5秒までペダルは左に切られ、変位も左に変化する。その後ペダルは40.5秒付近で僅かに右に切られているが、機首方位は左に変位したままである。
 横方向加速度の振動は、破壊されつつある尾翼がフラッターを起こしていて、40.5秒頃に方向舵の機能が完全に失われたことを示しているように見える。
 このように見ると、尾翼は一瞬にして破壊されたのではなく、一部が壊れ、フラッターを起こしながら破壊が広がっていったように見える。

DFDR解析 2.jpg


 総じて言えば、事故調による異常発生時のDFDR解析は、「急減圧説」を支持するために、35.70秒の前方加速度の突出と、36.28秒の下方への加速度の突出を、それぞれAPU部破壊と垂直尾翼破壊に無理やりあてはめたもので、その結果、その後のより大きな変動を「機体運動」で片づけようとしているが、これは理に合わない。

 事故調の説明を正しいと信じてしまえばそれまでだが、上記のような疑問を持つと、「では35.70秒の最初の瞬間的な前方加速度の増加は、それはCVR記録の「最初のドーン」の中の初期のピーク(CVRでは約35.6秒)に符合すると思われるが、何によって生じたのか」という疑問が残る。



日航123便事故 [日航123便事故]

§ 日航123便事故

 今年は日航123便の墜落事故から30年ということで、テレビでこれに関する番組が幾つか放送された。それに刺激されて、何冊か本を(おもに事故原因についての部分を)読んだ。また、YouTubeにボイスレコーダーの記録をアップロードしたものがあり、聞いてみた。

 資料から総じて得られたことは、この事故およびそれに関連した出来事には、未解決の問題・疑問が残っているということであった。それは、

1.「事故調査報告書」に記された事故原因は正しいか、特に「急減圧」はあったか?
2.墜落場所の特定・救出はなぜ遅れたか?特に、なぜ自衛隊は墜落場所の誤った情報を出し続けたのか?
3.事故調査のあり方、事故調査と犯罪捜査の関係の問題
である。


【参考資料】

1) 「事故調査報告書」 1987.06.19

2) 「墜落の夏」 吉岡 忍 新潮社 [コピーライト]1986
 1985年12月に、リハビリ中の落合由美さんにインタビューした内容が記載されている。それは、事故直後に発表されたものとは少し異なっている。

3) 「壊れた尾翼」 加藤寛一郎 技報堂出版 [コピーライト]1987.08
 著者は航空宇宙工学の工学博士。事故調査報告書の圧力隔壁破壊と急減圧を支持している。

4) 「隠された証言」 藤田日出男 新潮社 [コピーライト]2003
 著者は、事故調のいう「急減圧」はなかったとして、方向舵のフラッターにより垂直尾翼が最初に破壊したという仮説を提唱している。

5) 「機長の「失敗学」」 杉江弘 講談社 [コピーライト]2003
 著者は、「急減圧」も「方向舵フラッター説」も否定し、事故調の結論通り圧力隔壁破壊により垂直尾翼と機体尾部が破壊されたとするが、事故調のいう「急減圧」ではなく「相当な減圧」があったとという仮説を提唱している。

6) 「御巣鷹の謎を追う」 米田憲司 宝島社 [コピーライト]2005
 事故の原因としては、杉江氏と同様「相当の減圧」説。

7) 「日航機事故の謎は解けたか」 北村行孝・鶴岡健一 花伝社 2015.08.12
 事故原因については、大方事故調の結論を認めているが、疑問が残っていることも認めている。 
 事故調査関係者へのインタビューが記載されている。

【WebSite】

8) 日航ジャンボ機墜落事故 JAL123便 JA8119号機 昭和60年8月12日
  航空事故調査報告書に基づく 操縦室用音声記録装置(ボイスレコーダー:CVR)の記録


§ ボイスレコーダーの解読

 通常、事故機のボイスレコーダー音声が公表されることはないが、この事故では「諸々の事情」によって、これが外部に流出した。その結果、ボイスレコーダーの解読について、事故調査委員会による解読が批判されることになった。

 「事故調査報告書」中のボイスレコーダーの解読については、特に事故発生直後の運航乗務員(機長(CAP)、副操縦士(COP)、航空機関士(F/E))の間の会話、その中でも「オールエンジン・・・」について、議論が多い。

 YouTubeには、テレビの特集他、この関係の動画がたくさんアップロードされているが、下記の動画で聞いてみた。雑音が大きいのと機長が非常に早口で話すので、大変聞き取りにくい。
 耳がいいほうではないが、何とか聞き取った内容は、事故調が解読したものとずいぶん違っている。


【YouTubeアップロード動画】

 09) 日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図 Ver1.2 & ボイスレコーダー)
 10) 日本航空123便墜落事故フライトシミュレート(機外視点) ニコニコ動画GINZA


【事故調の解読】
    「・・・」は解読できなかった部分、アンダーラインは不確かな部分

18:24:35-36 ?ドーンという音
    37 ? 客室高度警報音または離陸警報音
    38 ①(?) ・・・
    39 ②(CAP) なんか爆発したぞ
    42 ③(CAP) スコーク 77
    43 ④(COP)ギアドア (CAP)ギアみてギア
    44 ⑤(F/E?) えっ (COP) ・・・ (CAP) ギアみてギア
    45
    46 ⑥(CAP) エンジン?
    47 ⑦(COP) スコーク 77
    48 ⑧(F/E) オールエンジン・・・

    51 ⑨(COP) これ見てくださいよ

    53 ⑩(F/E) えっ

    55 ⑪(F/E) オールエンジン・・・

    57 ⑫(COP) ハイドロプレッシャ見ませんか?

    59 ⑬(CAP) なんか爆発したよ
18:25:00

    04 ⑭(F/E) ギア ファイブ オフ



【動画で聞こえた内容】

 「?」は問いかけ。()は確信がないもの。赤の部分が事故調解読と異なるところ。
 時刻は確認できないので「事故調査報告書」に従う。

18:24:35-36 ?ドーン、ドーンと1秒弱の間隔で2回衝撃音
    37 ? 客室高度警報音または離陸警報音 1秒継続
    38 ①(CAP) まずい
    39 ②(CAP) なんか(爆発し)たぞ

    42 ③(CAP) スコーク スコーク この関係(いれ)るぞ
 「この関係(いれ)るぞ」は、恐らく機長が副操縦士に寄って言ったため、副操縦士のマイクから聞こえる。43秒にまたがる。
    43 ④(CAP)ギアみてギア
    44 ⑤(F/E) えっ (CAP) サンキュー (CAP?) ギア
 「サンキュー」は声があまり大きくないので、副操縦士への指示に副操縦士が何かしたことへの返事と思われる。

    46 ⑥(CAP) オーケー?
    47 ⑦(COP) スコーク セブン セブン
    48 ⑧(F/E) オレンギア>(all in gearのこと?) (オールエンジン・・・)

----(資料09の動画はここまで)

    51 ⑨(COP) これ見てくださいよ

    53 ⑩(F/E) えっ

    55 ⑪(F/E) オレンギア>(all in gearのこと?) (オールエンジン・・・)

    57 ⑫(COP) ハイドロプレッシャ見ませんか?

    59 ⑬(CAP) なんか(わか)った? (なんか爆発したよ)
18:25:00

    05 ⑭(F/E) ギア ファイブ オフ





O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その3 [ワイルドウエスト]

O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その3

§ ビーハンの証言の見直し

 O.K.コラール近くのガンファイトでは、最初に二発の拳銃による銃撃で始まったことが多くの証言で確認されている。この二発を撃ったのは誰か。
この部分について、ジョン・ビーハン郡保安官の証言を引用すると、

「彼らがクラントンたちとマクローリーたちの数フィート内に達した時、彼らの一人が――私はワイアットであったと思うが、”You sons of-bitches, you have been looking for a fight, and now you can have it!” と言うのを聞いた。また、大体このとき私はある声が “Throw up your hands!” と言うのを聞いた。

 この間に拳銃(複数)が向けられていた。私は特にニッケル鍍金された拳銃を見ていた、それは一団のある一人に向けられていた。私はビリー・クラントンに向けられていたと思う。その時の私の印象はホリディがそのニッケル鍍金された拳銃を持っていたというものであった。私は彼が確かに持っていたというつもりはない。私が話したこれらの拳銃はアープたちの手にあった。

 “Throw up your hands!”という命令が与えられたとき、私はビリー・クラントンが “Don't shoot me. I don't want to fight!” と言うのを聞いた。トム・マクローリーは同じ時に彼のコートを開いて、”I have nothing” あるいは ”I'm not armed”、あるいは何かそのようなことを言った。彼は、彼が武器を持っていないことを私に示したときにしたのと同じ仕草をした、彼のコートの両側を持ち、それをこのように広げた[図示する]。ビリー・クラントンが闘いたくないと言ったとき、私は彼の手の位置を見なかった。私の関心は二秒ほどニッケル鍍金された拳銃に向けられていた。ニッケル鍍金された拳銃が最初に発砲した、そして直ぐに第二の射撃が-二つの射撃は正に同時に-これら二発は同じ拳銃からではありえなかった-それらは余りに同時に近かった。ニッケル鍍金された拳銃は右から二番目の者によって発砲された。右から三番目の者が二発目を撃った、もしそれを第二発と呼べるならば。次いで闘いは全面的になった。最初の二発が撃たれた後、二ないし三発が非常に速やかに撃たれた-私は誰によるのか言えない。最初の二発はアープ側によって撃たれた。私は最初の二発の直後の弾が誰によって撃たれたのか断言できない。その時の私の印象は、次の三発は最初の二発と同じ側から、即ちアープ側から来た。[弁護団は証人が彼の印象を述べることに反対した。却下された。]これは、その場所にいてそれを見たときの、私の印象であった。」

 ビーハンが反対尋問に返事が出来なかったように、散弾銃を持っていたホリディが「(ニッケル鍍金された)拳銃で最初に撃った」というのはあり得ない。では、撃ち合いの開始時にニッケル鍍金された拳銃を見たというのはホリディを陥れるための全くの絵空事の偽証なのか?しかし、別の見方もできる。

 ビーハンの証言には、この目的で偽証をするには不必要な内容がある。

 ビーハンは、「ニッケル鍍金された拳銃は右から二番目の者によって発砲された。右から三番目の者が第二発目を撃った」とも証言した。

 銃撃が始まったときのアープ側の配置は、左から右にヴァージル、ワイアット、モーガン、ホリディであり、ヴァージルは空き地に入り、ワイアットはフライの建物の角、モーガンはワイアットの少し右側の歩道上、そしてホリディはモーガンの少し右側の路上にいたことはほぼ一致した見解である。

 それによれば、右から二番目の者はモーガン、三番目はワイアットということになる。

 ビーハンの証言時に、ガンファイトの配置図が法廷にあったようだが、残念ながら参照した資料にはその図は載っていなかった。ただビーハンの説明では、8がホリディ、5がヴァージルとなっているので、やはり上記の見解と同じであったと思われる。

 ある意味、これは当然の帰結である。ヴァージルは右手に杖を持っていた。ホリディは散弾銃を持っていた。最初に発砲された二発が拳銃からのものであり、どちらもアープ側によるものであれば、拳銃を使う手が空いていたのは、ワイアットとモーガンだけである。

 ビーハンは検死官審問とスパイサー聴聞(裁判)の両方で、前記の証言をほぼ繰り返している。それなのに何故、「右から二番目の者」とホリディの矛盾を無視したのか分らない。

 アープ側の各人がどんな拳銃を使ったのかは知られていない。ドク・ホリディと『ニッケル鍍金された拳銃』を結びつけているのはビーハンとクレイボーンの証言だけであり、しかもそれは人物を特定して言っていたのではなく、『ニッケル鍍金された拳銃』=ホリディの拳銃という先入観に基づいていたとも言える。もし、本当にホリディが『ニッケル鍍金された拳銃』を使っていたとしても、モーガン・アープが『ニッケル鍍金された拳銃』を使っていなかったことは言い切れない。


〇 “Murder in Tombstone” のシナリオ

 Steven Lubet著 “Murder in Tombstone” ([コピーライト]2004)は、「アープ/ホリディ裁判」の経過を主に描いた本である。この著者は、ワイアットが証言した、ビリー・クラントンとフランク・マクローリーが拳銃を抜き始めたのを見てから、ワイアットがポケットに入っている拳銃を抜いてビリーとほぼ同時に撃つことは物理的に不可能という観点から、実はワイアットは既に拳銃を手にしていたと見る。そして、フランクの(ワイアットから見て)不審な動きに反応して撃ち、続いて、やはり拳銃を手にしていたモーガンが撃ったとする。

 アープたちが空き地にやって来たときの状況は、アープたちのほうがずっと「アグレッシブ」であり、また撃ち合いの経過から見て、最初の二発をアープ側、(どちらが先であったかは別として)ワイアットとモーガンが撃ったというのが、最もありそうなシナリオである。

 ワイアットあるいはモーガンが何故撃ったかを知ることは事実上不可能である。誰かが真実を言い当てたとしても、それを証明することはできない。

 “CooperToons”という一風変わったWebSiteの”THE GUNFIGHT AT THE OK CORRAL”では、次のようなシナリオを提示している。
「ヴァージルは“Throw up your hands!”と言った。そこでビリー・クラントンは手を上げようとした。するとヴァージルは続いて “I want your guns!” と言った。そこでビリーは先ずは銃を渡そうと考え、銃に手を伸ばした。それを見たアープたちは、ビリーが撃つために銃を抜こうとしていると思い、撃ち始めた。」

 因みに、クレイボーンの証言によれば、ビリー・クラントンの拳銃ホルスターはガンベルトの左側につけられていた。(1993年の映画『トゥームストーン』では、ビリー・クラントンのホルスターは正しく左側になっている。)

 空き地に来てビリー・クラントンとフランク・マクローリーが拳銃をガンベルトのホルウターに入れているのを見たとき、ワイアットとモーガンは彼らに拳銃を突きつけた。そして何らかの理由で彼らは撃った。というのが最もありそうなシナリオである。

 こうして “Fighting is commenced.”


§ ガンファイトの経過についてのビーハンとC.H.ライトの証言

 ビーハンは、前記の証言を次のように続けた:

「『手を上げろ!』という言葉が発せられた後、ニッケル鍍金された拳銃が発射された。私は、『手を上げろ!』と言ったのはV. [Virgil] W.アープであったと思う。多くの闘いと銃撃が進行した。次に[ここの数語は解読できない。]私は、フランク・マクローリーが通りでよろめいているのを見た、片手を彼の腹に当て、右手で拳銃を持っていた。私は彼がモーガン・アープに向けて撃つのを見た、そして拳銃の方向から彼は地面を撃ったと言うべきである。フランク・マクローリーはフライの建物に向けて二回撃った、そして彼が通りを横切り始めた、その時彼はモーガン・アープに向けて撃った。私はその方角から二発を聞いた。私は彼が通りの半ばまで横切った後、彼を見なかった。私の関心は他の方角に向いていた。次いで私はその方角を見て、フランク・マクローリーが走っていて、一発の弾丸が発射され、彼は頭から倒れた、そして私はモーガン・アープが『彼を仕留めた!』と言うのを聞いた。

 それが大体闘いの終わりであった。その後二発ほどあったかもしれないが、私は覚えていない。私は最初の二発の効果を見たとは言えない。私が闘いの間に倒れたのを見た関与者は、モーガン・アープとフランク・マクローリーだけであった。私は最初の二発の効果を示す人のどんな動きも見なかった。私はどんな兆候にも気づかなかった[解読不能]。

 私が撃たれたと確信した最初の人物はフランク・マクローリーであった。私は彼がよろめき混乱しているのを見て、彼が撃たれたことを知った。彼は最初の二発が撃たれた少し後であった。私はマクローリー側の誰の手にもどんな武器も見なかった、フランク・マクローリーとビリー・クラントン以外には。私はフランク・マクローリーが歩道上にいるのを見た、フライの建物とその先の貸間屋の間の空き地と反対側のロットの前面のリール(Lille)からほんの二、三フィート以内であった。

 マクローリーあるいはクラントン側の誰かの手に武器を見るまでに、八ないし十発が撃たれたと思う。私が拳銃を手にしているのを最初に見たのはフランク・マクローリーである。アイク・クラントンは最初の五発が撃たれた後に脱して逃げた。私は彼をフライの家の角の背後に見た、私が最後に彼を見たのはそこであった。私は彼がフライの建物の背後の建増に走って入ったと判断した。」

 夫のC.H. ライトは、フレーモント通りと三番通りの北西の角にあったアズテックハウスの三番通り側の窓からガンファイトを目撃した。彼が一階から見たのか二階から見たのかは知られていない。彼が見たのは二発の銃声に始まる最初の数秒が過ぎてからであった。彼はマシューズ医師による検死官審問でのみ証言し、スパイサー聴聞には召喚されなかった。

「私が『1、2』と数えることができるほど速やかに二発が発砲された、私は三番通りの窓に向かって跳び、フレーモント通りを見た、私は数人が撃っているのを見た。私が見たとき、一人の者[Tom McLaury]がよろめきフレーモントと三番通りの角の南側、丁度角の家に倒れるのを見た。私はその者が誰か知らなかった。」

 このフレーモント通りと三番通りの角に倒れた者がトム・マクローリーであったことは間違いなく、この証言によればトムは最初の数発の銃撃の間に撃たれたことになる。

 「私は再度通りを見た。私は三人[WyattとVirgil EarpとDoc Holliday](*1)が約10ないし15フィート(3-4.5m)離れて、大体通りの中央に立っていてフライの写真館とその西側(below)の家に面しているのを見た。私はもう一人の者が空き地に隣接した建物(bulding)に寄りかかっているのを見た[Billy Clanton](*2)。二人の者が家(house)の側に立っている者(*3)に発砲しているようであった[WyattとVirgil Earp]。
 その者(*3)は彼のする動きから撃たれたようであった。次いで彼(*3)は一発こちら側の者(lower man)(*4)に、北西側の者(*4)に向けて撃った、後に彼はホリディだと理解した。」

(*1)原文の説明では、WyattとVirgilとHollidayとなっているが、Wyatt、Morgan、Hollidayではないか?
(2*)原文の説明ではBilly Clantonとなっているが、Virgilで、右脚脹脛を撃たれて倒れたた後立ち上がりフライの建物に寄りかかっていたのではないか?
(*3)はBilly Clantonで、彼が一発Holliday(*4)に向けて撃ったと解する。

「馬と共にいる者(*5)によって撃たれた射撃は効果があったようにみえた、というのは、相手(the other man)(*6)は部分回転した。次いで私は家に向かっている者を見ていて、彼らの誰かが倒れるのではないかとずっと予想していた、そして彼(*6)は地面に倒れ落ちる(slide down)動きをして、明らかに負傷した。その瞬間馬が見えなくなった。わたしは彼が何処へ行ったのか知らない。このこちら側の者(lower man)(*5)は明らかに通りに向かって撃っていた。彼は一発か二発撃った。次いで私は、家(house)の横に倒れ落ちた者(*3)見た、頭と肩を家に寄りかかり、彼の拳銃を膝に載せ、二発を撃った。彼は第三発を撃とうとしたが、明らかに弱り過ぎていた。射撃は外れた。同時に背が高くグレーの衣服と鍔広の帽子を着た者がいて(*4)、通りの中ほどに立っていて、二発を明らかに家に寄りかかっていた者の方角に撃った。次いで、一人 (?) が通りの中ほどに現われて通りに撃った。家の角近くの地面に横たわったこの者(*3)は三発だけしか撃たなかった。彼は力を失ったように見えた。次いで、通りの北側にいた者たち(*7)によって更に二、三(a few)発が撃たれ、彼らは私の視野から去り、私は彼らを見ることができなかった。」

(*5)はフランク・マクローリーで、(*6)はモーガン・アープと考えられる、ビーハンが「フランクがモーガンに向けて二発撃った(一発は地面に当たった)」と証言しているのと符合する。
(*7)ガンファイトが終わる前にフレーモント通りに北側に行ったのはフランクだけなので、はっきりしないが、フランクとホリディか?

「次に私が見たことは、建物の角の南側に倒れている者の側に二人の者(*8)が立っていることであった。黒い服を着た背の高い者(*9)が手にライフル銃を持って現場に現われ、『その拳銃をその者から取り去れ、そうでないと私は彼を殺す!』と言った。このとき撃ち合いは全て終わり、私は全体で10ないし15秒を超えなかったと思う、この黒い服を着た背の高い者は、乱闘の関与者ではなかった。

(*8)はヴァージルとワイアットと思われる。
(*9)はフライの写真館の主人カミラス・フライ(Camillus Fly)である。

 六人が発砲したように見えた、四人は通りの中ほどに、一人は通りの南側、そして一人は馬と共にいた。後に、私はグレーのコートを着た者がドク・ホリディだと知った。全部で25ないし30発が発射されたと思う。散弾銃を持っていた者を見なかった。闘いは私のいるところから130ないし140フィート(39.6m-42.7m)離れていた。音から、最初の二発は拳銃で撃ったものと思う。散弾銃からの音が一回あったと思う。
 
 私は通りの角に倒れた者が闘いの間中そこに横たわっていたのを見た。私は彼が撃ったのを見なかった。彼は撃たれた最初の者であったように見えた。最初の二発の間には、人が拳銃を抜いて撃つのに十分な時間はなかった。それらは二つの拳銃からに違いない。二発目を発砲した者は、最初の弾が発射されたときに発砲する準備がされていたに違いない。私が聞いた二発は私が窓へ行く前に発砲されたが、そこへ行くのに一秒はかからなかった。」

 ライトはシルズと同様に関与者を知らなかった。彼の証言はそういう人の「生の目撃証言」の例を示している。彼はこれを検死官審問で証言したが、彼の証言はアープ側の有罪/無罪には関係しないので、アープ裁判には証人として召喚されなかった。
 
ライトが目に入った全てを正確に証言しているとは言わないが、フランクがモーガンを撃った描写はビーハンの証言と符合し、ビーハンの証言が「デタラメ」ではないことを傍証している。



O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その2 [ワイルドウエスト]

O.K.コラール近くのガンファイト - 親カウボーイの証言 その2

§ ガンファイトはどのようにして始まったのか

 O.K.コラール近くの空き地でのガンファイトはどのようにして始まったのか。誰が最初に撃ったのか。多くの証言では、最初に拳銃によるほとんど同時に近い二発の銃撃があり、その後識別できる暫しの間を置いて撃ち合いが全面的になったとする。

 これには、親アープと親カウボーイの相反するシナリオがある。親アープのシナリオでは、ビリー・クラントンとワイアット・アープが最初に撃ったとする。親カウボーイのシナリオでは、ドク・ホリディとモーガン・アープが最初に撃ったとする。

〇親カウボーイのシナリオ

 一般に言われている親カウボーイのシナリオは、ジョン・ビーハン郡保安官、アイク・クラントン、ビリー・クレイボーン、ウェズリー・フラー、ウィリアム・アレンなどの証言を総合したもので、実際にはそれぞれ少しずつ異なっている。一般に言われているのは、

 「アープたちがクラントンたちと対峙した時、アープ側の誰かが、“You sons of bitches, you have been looking for a fight, and now you can have it.” と言った。それに続いてヴァージル・アープが “Throw up your hands!” と言った。同時に、アープたちは拳銃をクラントンたちに向けた。ビリー・クラントンは “Don’t shoot me! I don’t want to fight!” と言い、手を上げた。トム・マクローリーは上着を開いて武器を持っていないことを示し、“I’m not armed.” と言った。その時銃撃が始まった。ドク・ホリディとモーガン・アープが最初に撃った。」

 このシナリオが疑問視される点の一つは、親カウボーイ以外の『中立な第三者』の証人に、クラントンたちが『手を上げた』と認める目撃証言がないことである。

 もう一つの点は、『ドク・ホリディが(拳銃で)最初に撃った』とする点である。
ビーハンは、「ホリディの『ニッケル鍍金された拳銃』がビリー・クラントンに突きつけられ、最初に撃った。」と証言したが、ドク・ホリディは散弾銃を持っていたことが知られている。ビーハンは弁護側からの

 「ホリディから撃たれた最初の弾は散弾銃からであった、彼が散弾銃を放り出してニッケル鍍金された拳銃を抜き、次いでニッケル鍍金された拳銃を撃った、というのは事実ではないのか?」

という反対尋問に、ビーハンは答えられなかった。

 また、コチーズ郡地区検事補W.S. ウィリアムズ (‘Winfield Scott Williams)は、10月26日のガンファイトの日の夕方、ビーハンがヴァージルを訪ねたとき、ビーハンがヴァージルに

 「私は君が『諸君、手を上げろ、私は諸君の武装解除に来た』と言うのを聞いた、その時マクローリーの一人が ‘We will,’ と言って銃を抜いた。撃ち合いが始まった。」

と話すのを聞いた、と証言した。これに関して問われたビーハンは、

 「私は、彼が『手を上げろ!』と言うのを聞いたと彼に話したと思うが、マクローリーが何か言うのを聞いた、あるいは彼が拳銃を抜くのを見たと彼に話したことはない。」

と答えた。しかし、ビーハンの証言の信用性はダメージを受けた。


〇親アープのシナリオ

 親アープのシナリオは、ワイアットとヴァージル・アープの証言に基づいている。要約すれば、

 ヴァージル・アープは右手に杖を持って、 “Throw up your hands! I want your guns!” と言った。フランク・マクローリーとビリー・クラントンが拳銃に手をかけ、抜く動きをした。ヴァージルは “Hold! I don’t want that!”と言った。ビリー・クラントンとワイアット・アープがほとんど同時に撃った。

ワイアット・アープの証言では:

 「我々は彼らに近づき、フランク・マクローリー、トム・マクローリーとビリー・クラントンがフライの写真館の西の建物の空き地の反対側の建物の東側を背にして並んで立っていた。アイク・クラントンとビリー・クレイボーンと私が知らない者(ウェズリー・フラー)は写真館と西の次の建物の間の空き地の大体半ばに立っていた。 ビリー・クラントンとフランクとトム・マクローリーは彼らの手を横にして、フランク・マクローリーとビリー・クラントンの六連発銃ははっきり見えた。ヴァージルは「手を上げろ、私は君たちの武装解除に来た!」("Throw up your hands; I have come to disarm you!")と言った。ビリー・クラントンとフランク・マクローリーは彼らの手を六連発銃に添えた。ヴァージルは、「止めろ、そうではない!」("Hold, I don't mean that!")と言った。次いでビリー・クラントンとフランク・マクローリーは彼らの拳銃を抜き始めた。同時に、トム・マクローリーは彼の手を右の腰に下ろし、彼のコートをこのように[どのようにかを示す]投げ、そして彼の馬の後ろに跳んだ[実際にはそれはビリー・クラントンの馬であった。]
 
 私は拳銃をオーバーコートのポケット入れていた。ビーハンが他の一団を武装解除したと我々に話したとき、私はそれをそこに入れていた。ビリー・クラントンとフランク・マクローリーが彼らの拳銃を抜いたとき、私は拳銃を抜いた。ビリー・クラントンは私に銃を向けたが、私は彼を狙わなかった。私は、フランク・マクローリーが優れた射撃の腕で危険な者であるという評判を知っていて、私はフランク・マクローリーを撃った。最初の二発はビリー・クラントンと私によって発射された。彼は私に向けて撃ち、私はフランク・マクローリーに向けて撃った。私はどちらが先に発射されたかわからない。我々はほとんど同時に撃った。次いで闘いは全面的になった。」

ヴァージル・アープは:

 「彼等を見るや否や、私は「諸君、手を上げろ、銃を渡せ」("Boys, throw up your hands, I want your guns,")あるいは「武器」(“arms”)であった。それとともに、フランク・マクローリーとビリー・クラントンは銃を抜きそれらをコックし、私はそれらが「クリック、クリック」そるのを聞いた。アイク・クラントンは彼の手をこのように(描く)胸に上げた。そこで私は、両手を上げるように言った、その時右手に杖を持っていた。「止めろ、私はそれを望まない!」("Hold on, I don't want that!") 私がそれを言ったとき、ビリー・クラントンは彼の六連発銃を前に向け、フルコックした。私は、私の隊の左に立っており、彼(ビリー)はフランクとトム・マクローリーの右に立っていた。彼は私を狙っていなかったが、彼の拳銃(の狙い)は大体私を通った。二つの銃撃が正しく一緒に放たれた。ビリー・クラントンはその一人であった。同時に、私は杖を左手に持ち替え、銃撃を始めた。それは全般的になり、誰もが闘いに入った。」

(Q) 君は、闘争の開始時に二発が同時に近く撃たれた、そしてビリー・クラントンがその一人であったと言った。もう一発を撃ったのは誰か?
(A) ワイアットがそれを撃ったと考えるようになった。

 このシナリオに符合する証言をした『中立な第三者』の証人は一人だけいた。H.F. シルズ(Sills)である。彼の証言では、

 「・・・私は会話を聞くには十分近くはなかったが、彼らが拳銃を直ちに抜くのを見た。保安官はそのとき右手に杖を持っていた。彼は手を上げて話していた。・・・そのときまでにビリー・クラントンとアイワット・アープが彼らの銃を撃った。・・・」

 親カウボーイのシナリオと違って、親アープのシナリオは一応筋が通っているように見えるが、疑問はある。

 一つは、クラントン&マクローリー側はフランクとビリーしか拳銃を持っていなかった。アープたちは知らなかったかもしれないが、フランクもビリーも当然それを知っていた。それで四人を相手にして、しかもその一人は散弾銃を持っているのに、撃ち合いをする気になるだろうか?

 もう一つは、アープたちは「決闘」(duel)をしに来たのではなく、クラントンたちの武装解除に来た。例え本当にビーハンがアープたちに「彼らを武装解除した」と言ったとして、そしてアープたちがそれを信じで拳銃を収めたとしても、フランクとビリーが拳銃を携帯しているのを見たのに、相手が拳銃を抜くのを待ってから自分の拳銃を抜くようなことをするだろうか?

 ワイアット・アープの言ったことは、ある意味自己矛盾である。「(相手が武器を持っていると考えたので)武器を手にしていたが、ビーハンの言葉で相手が武器を持っていないと信じたので武器をポケットに入れた」にもかかわらず、「(相手が武器を持っているのを見て確認したのに)相手が銃を抜くまで抜く動作をしなかった。」本当は、相手が武器を持っているのを見たら、その時点で銃を取り出したのではないか?

 ワイアット・アープとヴァージル・アープの証言は、全面的には信用できない。


§ シルズの証言について

 H.F. シルズは次のように証言した:

(Q) 1881年10月26日に彼が聞いた脅しについて問われる
(A) 私は四、五人の者がO.K.コラールの前面に立っているのを見た、彼らがヴァージル・アープと持った何か揉め事について話していた、そしてその時彼らは脅しをした、即ち、彼らは彼に会ったら彼を殺すだろうと言った。その一団の誰かがその時大声で話し、彼らはアープの一団に会ったら彼ら全体を殺すだろうと言った。次いで私は通りを(東へ)歩き、ヴァージル・アープとアープたちは誰か知りたいと聞いた。路上のある人がヴァージル・アープを私に指し示し、彼は市保安官だと言った。私はそこへ行って、彼を一方の側に呼び、彼に私が立ち聞きした、この一団がした脅しを話した。彼らの一人はそのとき頭に包帯をしていた、そして葬儀の日に彼はアイザック・クラントンであると教えられた。私は彼をその一団の一人と認識した。

(Q) 撃ち合いについて質問される
(A) 私が保安官に話した数分後、私はある一団が四番通りを下り始めたのを見た。私は彼らについて郵便局まで下った。次いで私は、それらの脅しをしているのを私が聞いた一団が視野に入った。私は揉め事があるだろうと考え、そして通りを横切った。私は保安官と一団が行って、他の一団に話すのを聞いた。私は会話が聞こえるほど近くはなかったが、彼らが直ちに拳銃を抜くのを見た。保安官はその時杖を彼の右手に持っていた。彼は手を上げて話した。しかしながら、私は言葉を聞かなかった。そのときまでに、ビリー・クラントンとワイアット・アープが彼らの銃を撃ち、保安官は杖を片手から他方の手に変え、拳銃を抜いた。彼はその時撃たれたようで倒れた。彼は直ちに起き、撃ち始めた。銃撃はそのとき全面的になり、(私は)コートハウスの脇のある玄関に後退した。

(Q) 君はどのようにしてビリー・クラントンを知ったか?
(A) 私は彼が死んだ後で見た、そして彼がワイアット・アープに向けて撃った者だと認識した。

 シルズの主尋問に対する証言はこれだけである。そしてこれはアープ側が必要とするものの全てでもある。即ち、

・クラントンたちは、アープたちを殺すと脅していた。これはアープ側がクラントンたちの武装解除に行き、その後の行動が自衛の行動であったことを立証する。
・ビリー・クラントンとワイアット・アープが最初に撃った。それはワイアット・アープの証言の正しさを示し、クラントン側が先に銃を抜く動きをしたというワイアットの証言を傍証する。

 告訴側は反対尋問でシルズが何者なのか、以前にアープたちとの関わりがなかったか詮索したが、彼の尻尾をつかまえることはできなかった。

 シルズの証言は、既に「製錬された」もので、弁護側にとって必要な情報だけで構成されている。もし実際に彼がこれらを目撃したならば、彼の目にはもっと多くのものが入って来たはずであるが。

 では、シルズの証言に信憑性はあるのか?

 アレン通りのO.K.コラールの入口付近でクラントンたちを見たのはシルズ一人ではない。しかし、他の証言者は、彼らがO.K.コラールの前面で止まって話をしたのを見ても聞いてもいない。

 コールマンによれば、彼らはその前に通りの反対側のダンバーのコラールで話をしていて、O.K.コラールの前では止まらずに通過して行った。コールマンはビリー・クラントンが馬に乗り、フランク・マクローリーは馬を曳いていたと証言したが、シルズは馬を見なかったと言った。

 マーサ・キングは、マクローリー兄弟を「異様に目立つ服装」と言っていたが、シルズは彼らの服装について何の記憶もなかった。

 シルズの証言で、クラントンたちがヴァージル・アープの名だけを出していたというのも奇妙である。確かにアイクを拳銃で殴ったのはヴァージルであったが、前夜アイクが口論していたのはホリディとであり、ウォレス判事の裁判所でアイクが口論したのはワイアットとモーガンとであった。トムを殴り、銃器店の前でフランクに苦言を言ったのはワイアットであった。それなのにシルズの証言では、ヴァージルの名が出て、そしてヴァージルの名だけを聞いたので、彼はヴァージル保安官を捜しに行くことができた。

 シルズがガンファイトを見たのは、数十メートル離れた位置であった。空き地に入ったヴァージルがフライの建物やワイアットの陰に入らずに見ることが本当にできたのか疑問である。

 シルズは、ビリー・クラントンを死後に見て、彼が最初に撃った一人だと識別したと言った。しかし、どうやってワイアット・アープを識別したのかは、問われていない。ヴァージル、ワイアット、モーガンは背丈姿形が似ていて、よく知っている人でも遠目に見分けるのは難しい。しかもシルズから見て背を向けていたワイアットをどうやって識別できたのか?

 シルズによれば、彼が目撃の件を最初に話したのはジェームズ・アープに対してであった。(何日であったかは不明。)つまり、アープ側あるいは弁護側と接触する前に彼が何を知っていたかを確かめることはできない。

 どうみてもシルズは「作られた」証人である。




O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 [ワイルドウエスト]

O.K.コラール近くのガンファイト――親カウボーイの証言

 1881年10月26日の午後、トゥームストーンの街は異様な興奮に包まれていた。拳銃を腰に差し、ライフル銃を手に持って「アープたちとドク・ホリディが通りに姿を現したら舞踏会が始まる」と言触らして回ったアイク・クラントンの言動と、一部市民の過剰反応とによって、実際の関与者が(昼過ぎに)目を覚まし、あるいは町に来る前に、市民たちは、「アープたちとカウボーイたちの間でガンファイトが起きる」と予想していた。多数の市民が通りに出て、それがいつ起きるか、彼らの動向を注視していた。
そしてガンファイトが起きた。

§クラントン&マクローリーは何をしていたか?

 アープ裁判で、ワイアットとヴァージルは繰り返し、カウボーイたちによる「アープたちを殺す」という脅しに言及している。

 10月26日の朝からヴァージル・アープによって逮捕され、ウォレス判事の裁判所で罰金を払わされるまで、アイク・クラントンが武器を持って町中でアープたちと闘うと騒いでいたことは確かであった。アープたちが昼過ぎに起きて通りに出てからヴァージルが彼らの武装解除に行くことを決意するまでの間にも、カウボーイたちがアープたちを脅そうとしているという知らせが市民から何度も届いていた。
しかし、フランク・マクローリーとビリー・クラントンが町に乗り入れた後、彼らが実際に何をしていたのかについては余り書かれていない。アープ裁判の証言をもとに彼らの跡を追うと、次のようになる。

〇トムは拳銃をサルーンに預ける
 四番通りとフレーモント通りの南西の角にあったキャピタル・サルーンの経営者アンドリュー・メーハン(Andrew Mehan)は、トム・マクローリーが1時と2時の間に、キャピタル・サルーンに彼の拳銃を預けた、その拳銃は今でもサルーンの金庫に入っている、と証言した。
 多くの資料はこれを次の「ワイアットによるトムへの拳銃殴打」の後に置くが、その前であったと思う。トムは、キャピタル・サルーンで、アイクが武器の不法所持で逮捕されたことを知り、アイクの様子を知るためにウォレス判事の裁判所に行こうとしていた。武器を不法所持してそこへ行くのは賢明ではない。

〇ワイアットによるトムへの拳銃殴打
 アイクが罰金を払ってウォレス判事の裁判所から去った後、裁判所の近くでワイアットとトム・マクローリーが行き合った。
ワイアット・アープの証言では、

 「私は次いで司法事務所近くの裁判所の外に歩き出て、トム・マクローリーに会った。彼は私のところに来て、「もし君が闘いを望むなら、私は君とどこででも闘うぞ。」("If you want to make a fight I will make a fight with you anywhere.")と言った。私はその時、彼はアイク・クラントンと私の間で交わされたことを聞いたと推測した。私は彼が私を脅してきたことを知っており、そして丁度アイク・クラントンについてと同様に、もし闘わねばならないならは、私が自衛のために対等な機会にするのが望ましいと感じた。それで私は彼に「よろしい、ここで闘おう!」("All right, make a fight right here!")と言った。そして同時に私の左手で彼の顔を平手打ちし、右手で拳銃を抜いた。彼は彼のズボンの右腰に拳銃をはっきり見せていた(in plain sight)が、それを抜く動きをしなかった。私は彼に「銃を取って使え」("Jerk your gun and use it!") と言った。彼は返事をせず、私は彼の頭を六連発銃で打って、ハフォードの角に向けて歩き去った。私はハフォードに入り葉巻を手に入れて出てドアの側に立った。」

 しかし、この出会いの目撃者たち、トゥームストーンの肉屋A. バウアー(Apollinar Bauer)、地元商店の会計係J.H. バッチャー(Batcher)、地元の大工トーマス・キーフ(Thomas Keefe)の証言はワイアットとは違っていた。
バウアーによれば:

 「私とハイネス氏は共にトム・マクローリーがウォレスの裁判所から来るのを、そしてアープ氏とマクローリーが対面して非常に接近して歩いているのを見た。ハイネス氏と私は止まってアープ氏とトム・マクローリーを見た。彼らは共に互いに何かを言っていたが、私はそれを理解しなかった。私がウォレスの裁判所へ行くために彼ら二人を通り去ろうとした瞬間、アープ氏は彼の左手あるいは拳を上げ、トム・マクローリーの顔を打った。トムは両手を彼のズボンのポケットに入れていた。アープ氏は、「君は武器を持っているかいないか?」("Are you heeled or not?")と言った。トム・マクローリーは「いや、私は武器を持っていない。私は誰とも諍い持っていない」("No, I am not heeled. I have got nothing to do with anybody.")と返事した。トム・マクローリーは彼の両手をポケットから出して殴打を避けようとした。トム・マクローリーはアープ氏から離れるように歩道から通りへ後退した。アープ氏は彼について行き、彼のコートのポケットから右手で銃を抜き、彼の肩と頭を拳銃で殴った。マクローリーは通りの大体中央に倒れた。彼は右側から倒れ、左手で彼の左耳を覆った。私がちょっと周囲を見回したとき、ある老齢の紳士がトム・マクローリーを抱き、彼を四番通りに沿って導き、アレン通りを横切り先のフレーモント通りへ行った。アープ氏は二回あるいは三回、あるいは四回かもしれないが彼の拳銃でトム・マクローリーを殴った。アープ氏がトム・マクローリーを倒して去るとき、彼は「私はあのson-of-a-bitchを殺すことができた」と言った。トム・マクローリーは打たれたとき目を恐ろしげに大きく開き、ふらふらとして震えていた。」

J.H. バッチャーは、トムの最初の言葉を次のように聞いたと証言した:

 「ワイアット・アープはトム・マクローリーに何か言った。・・・トム・マクローリーは彼に対して、彼(トム)は彼に対して敵意を持ったことはなかった、そして彼の友人である。・・・そして、彼(ワイアット)が闘いを望むならばいつでも、彼(トム)は彼とともに闘う。(whenever he wanted to fight, he was with him)彼がそう言ったとき、ワイアットは拳銃を抜いて・・・」

 最初の会話は分らないが、外から見ている限り、ワイアットが一方的に無抵抗なトムを攻撃したように見える。ワイアットは「彼のズボンの右腰に拳銃をはっきり見せていた」というが、バウアーはワイアットが、「君は武器を持っているかいないか?」と問うのを聞いた。拳銃がはっきり見えていたらこんな聞き方はしないはずである。バウアーを含めて他の目撃者、J.H. バッチャー(Batcher)、トーマス・キーフ(Thomas Keefe)の誰もトムが「はっきり見せて」武器を持っているのを見ていない。
 バウアーによれば、この後トムは、ある老紳士に付き添われて、四番通りをフレーモント通りの方へ歩いて行った。

〇フランク・マクローリーとビリー・クラントンがトゥームストーンに来る
 後にマクローリー兄弟の兄ウィリアム・マクローリーが語ったことによれば、マクローリー兄弟がこのときトゥームストーンに来た理由は、暫くコチーズ郡を離れるので商売上の整理、すなわち家畜の処分と代金の回収、債務返済のためであったとされている。彼らは、テキサス州フォートワースで弁護士をしているウィリアムを訪ね、そこから彼の家族と共に、妹の結婚式に出席するため、故郷のアイオワ州に行くことになっていた。ガンファイトの後、死亡したトムの遺体には三千ドル相当の現金、小切手その他の債券が発見された。

 マクローリー兄弟の隣人の牧場主J.R. フリンク(John Randolph Frink)は、トゥームストーンで600頭の肉牛の取引の約束を得ていた。
26日、フランク・マクローリーとビリー・クラントンおよびフリンクは、午前中ラウンドアップ(放牧した家畜の駆り集め)をした後、三人で馬に乗ってトゥームストーンに来た。彼らはまず一杯やるためにグランドホテルに入った。

 グランドホテルに入ったフランクに、トムがワイアットに殴られた件を話したのは、自称無職の賭博師ウィリアム・アレンであった。

 「私はその日、グランドホテルのすぐ近くで、フランク・マクローリーたちが乗り入れたとき、彼を最初に見た。フランク・マクローリー、ビリー・クラントン、そして私が知らない老齢の紳士(フリンク)であった。これは午後2時頃であった。最初、ドク・ホリディが出てきて彼らの一人(ビリー・クラントン)と握手し、”How are you?” あるいはその種の何かを言った。ホリディはそこで彼らを去り、フランク・マクローリー、ビリー・クラントンと老齢の人はグランドホテルに入って行った。・・・私は通りを横切り、彼らの方へ行った。彼らは一杯やろうとしていた、そして私に加わるように聞いた。私はフランクを脇に呼んで、何が起きているか知っているか聞いた。
・・・
 私が聞いたこと、即ちトム・マクローリーがワイアット・アープによって頭を殴打されたことを彼らに話した後、フランクは『何で彼はトムを殴打したのか?』と言った。私は知らないと言った。彼は、『我々は飲まない』と言った、それが、私が彼から聞いた最後の言葉であった。彼らは馬に乗って行った。その前に彼は言った、『私は彼らを町から出すつもりだ。』彼がこれを言ったとき、グラスがカウンターに置かれていた。彼らは飲まなかった。」

〇銃器店へ行く
 フランク・マクローリーとビリー・クラントンは四番通りの銃器店に入って行った。アイクによれば、銃器店にはアイクが先にいた。

 「私は町にいる時にはほとんど毎日銃器店に行った。私はそこへ行き拳銃を頼んだ、そして彼は私にそれを持たせようとしなかった。店を運営している紳士は、私の頭が血を流している、私が揉め事を持っていると言い、彼は私にそれを持たせないと言った。・・・ ・・・ 私は銃器店にいた。ウィリアム・クラントンは私の後にそこに来た。私は彼が店に入ったかどうか知らなかった。トム・マクローリーがそこにいなかったことは確かだ。フランク・マクローリーは店に入って来てトムは何処かと聞いた。」

フランクとビリーはカートリッジ(弾薬)を購入し、ガンベルトに詰めた。彼らが銃器店に入るのを見たワイアットは様子を見に行った。ワイアットの証言では:

 「・・・その後すぐに、私はトム・マクローリー、フランク・マクローリーとウィリアム・クラントンが私を通り過ぎて四番通りを銃器店へ行くのを見た。私は彼らが何をしようとしているのか見るために、彼らについて行った。私がそこに着いたとき、フランク・マクローリーの馬が歩道の上に立って頭を銃器店のドアの内に入れていた。私は馬の馬勒を取り、というのは、私は保安官代理であったので、馬を歩道から降ろし始めた。トムとフランクとビリー・クラントンがドアから来た。ビリー・クラントンは彼の手を六連発銃に乗せていた。フランク・マクローリーは馬の馬勒を取り、私は、『君はこの馬を歩道から出すべきだ』と言った。彼は馬を下げて通りに入れた。アイク・クラントンは大体この時やって来て、皆銃器店に入った。私は彼らが銃器店でカートリッジをベルトに詰めているのを見た。彼らは店から出て、四番街に沿ってアレン街の角へ歩いた。私は四番街とアレン街の角まで彼らについて行った。彼らはアレン街を歩いてダンバーのコラールまで行った。」

 アイクによれば、トム・マクローリーがいたとワイアットが言ったのは見間違いであった。

〇O.K.コラールに入って行く
 銃器店を出たアイク、ビリー・クラントンとフランクにビリー・クレイボーンが合流した。クレイボーンによれば、

「私はフランク・マクローリーとビリー・クラントンに会った。私は彼らを良く知っていた、そして、私は彼らを知っていて彼らと話をするという単純な理由で彼らとともにいた。私は彼らとブラウンのホテル(ハフォードのサルーンの二階)近く、四番通りとアレン通りの南東の角で彼らと会った。私はビリー・クラントンとジョニー・ビーハンのコラール(※ダンバー&ビーハンのコラール)に行き、そこで我々はベンソンのコラール(O.K. コラール)を通った。我々はそこから揉め事の起きたところへ行き、それが起きるまでそこにいた。」

 鉱夫 R.F. コールマンは彼らがダンバーのコラールで話し合っているのを見たが、内容は聞かなかった。その後彼らはアレン通りを横切って北側のO.K.コラールに入って行った。

 「・・・その少し後に私はO.K.コラールの前にいたが、二人のクラントンとマクローリーがダンバーのコラールの中の馬屋に立って話をしていた、数分のうちに彼らは出てきて通りを横切り、O.K.コラールに入った。ビリー・クラントンは彼の馬に乗っていて、フランク・マクローリーは彼の馬を曳いていた。彼らが通ったときビリー・クラントンは私に言った、「ウエストエンド・コラールはどこにありますか。」私は彼にそれが何処にあるか話し、彼らはコラールの中に入って行き、私はアレン通りに行った。そのときヘッドクォーター・サルーンの反対側でビーハン郡保安官に会い、彼に彼らを武装解除に行くべきだ、彼らは悪さをしようとしていると思うと話した。私は間もなくアープ保安官に会い、彼に同じことを話した。次いで私はアレン通りを再度歩いて下り、O.K.コラールを通り抜け、そこで私はクラントンたちとマクローリーたちがビーハン郡保安官と話しているのを見た。・・・」

〇トムはエヴァーハーディの肉屋に行く
 事の前後関係は不明だが、トム・マクローリーはアレン通りにあったエヴァーハーディの肉屋に入り、出てから四番通りとの角の方向へ行くのがコスモポリタンホテルの所有者ビリッキーと軍医ジョン・ガーディナーに目撃された。彼らはエヴァーハーディの店からアレン通りを隔てたほぼ反対側にあったコスモポリタンホテルの前からトムを目撃した。

 「(私は)トム・マクローリーを見たことがあった、そして10月26日に彼を最後に見た、アレン通りの南側を歩き下り、エヴァーハーディの肉屋に入り、すぐに再び出てきて、通りを数歩下り、アレン通りを斜めに四番通りの角に横断した。これは二時頃であった。
(Q) 彼が肉屋の店に入って行ったときと彼が出てきた時との間で、何か変化があったか観察したか、何か武器の所持に関して述べよ。
(A) 私は彼が肉屋の店に入った時も出てきたときも、彼に武器を見なかった。
(Q) 彼が入ったときの外見はどうであり、彼が出てきた時の外見はどうであったか、隠された武器の所持に関して?
(A) 彼が肉屋の店に入ったとき彼のズボンの右側のポケットは平らで何も入っていないように見えた。彼が出てきた時、彼のズボンのポケットは突き出ていた、あたかもその中に回転式拳銃があるかのように(as if there was a revolver therein)。」

 弁護側がこのような問答をしたのは、ガンファイトのときにトムが拳銃を持っていた可能性を主張するためであった。告訴側は、彼が何故そのように注意深く見ていたのか尋問した。

 「闘争が起きた日、全ての善良な市民は、これらのカウボーイたち全てを非常に注意深く見ていた、そして彼が通りを下っているとき、私の関心はある友人(ガーディナー)によってこのマクローリーに向けられ、そして私は彼を非常に注意深く見ることになった。」

 告訴側は、エヴァーハーディの肉屋の店員アーネスト・ストームス(Earnest Storms)に、トムが店に入ったとき武器を持っていず、店で武器を手に入れたこともないと証言させた。

〇フランクとトムはバウアーの肉屋の前で立ち話をする
 フレーモント通りのユニオン・マーケット(バウアーの肉屋)のバウアーとの共同事業者ジェイムズ・キーオ(James Kehoe)の証言によれば、キーオは店の前でフランクとトム・マクローリーと話をしていた。

 「我々、彼と彼の兄弟は、私が属している商会のある金について誤解があった。フランクは我々の商会に債務を負っていた、そして私は我々の店の前に立っていて、フランクおよびトム・マクローリーと話をしていた。」

 店に来ていた家政婦マーサ・キングによればこのとき馬が二頭いた。

 「・・・異常に目立つ男たちが肉屋近くの歩道に二頭の馬とともに立っているのを見た。私は店に入った。中の人々は非常に興奮していた。私に応対するようには見えなかった。私はどうなっているのか尋ね、彼らはアープたちとカウボーイたちの間に騒ぎが起きようとしていると言った。・・・」
 ということは、トム・マクローリーはこの時からビリー・クラントンの馬とされている馬を連れていたことになる。

〇馬車の用意をする
 アイク・クラントンによれば、ビリー・クラントンはアイクに会ったとき、アイクに町を出るように頼んだ。彼らは馬車を預けたウエストエンド・コラールに馬車を用意するように依頼した。彼らがフライの貸間屋&写真館の西の空き地にいたのは、馬車の用意が出来るのを待っていたのだという。

 「・・・私はドク・ホリディに会うために留まった。彼らが次にしたことは、ヴァーグとモーグが私に忍び寄り武装解除したことであった。その少し後、私は弟に会った。彼は私に町を出るように頼んだ。丁度その時私は我々の馬車馬を持っている者に会った。私はそれらに馬具をつけるように話した。私は弟が残したあるものを取りに行った。次いで我々は馬車馬がいるところへ行った。そこで郡保安官と会った。・・・」

〇ビーハン郡保安官は肉屋の前でフランクに武装解除すると話した
 クラントン&マクローリーを捜し始めたビーハンは、フレーモント通りでフランクを見つけた。

 「・・・次いで私は四番通りを下りフレーモント通りの角に行った。そして私はそこで馬を持って誰かと話をしているフランク・マクローリーに会った。私は彼に挨拶した。私はマクローリーに彼を武装解除するつもりだと話した、というのは町に揉め事が起りそうで私は町で武器を持っている誰をも武装解除するつもりであった。彼は、揉め事をする気はないが、武器を手放す気はないと言った。私は彼に、彼は拳銃を手放すことになる、皆同じだと話した。大体その時、私はアイク・クラントンとトム・マクローリーを、通りを下ったフライの写真館の先に見た。・・・」

 ビーハンが来たときには店の前にいたのはフランク一人であった。

〇ビーハンは空き地でラントン&マクローリーに武装解除すると話した
 空き地でビーハンがクラントン&マクローリーに武装解除して逮捕すると言った。

 「私がそこに着いたとき、私はアイク・クラントン、トム・マクローリー、ウィリアムウ・クラントンとウィリアム・クレイボーンがそこにいるのを見つけた。フランク・マクローリーは私と共に行った。私は彼らに言った、『君たちは武器を手放さなければならない。』フランク・マクローリーは返事を渋った。彼は最初に武装解除されたくないようであった。アイク・クラントンは私に、彼は何も持っていない、彼は武器を持っていないと話した。私は彼の腰に手を置き、彼が持っているか調べた。私は彼が武器を持っていないことを知った。トム・マクローリーは彼のコートを引いて開き彼が武器を持っていないことを私に示した。私はそこに五人が立っているのを見た。私は彼らに彼らの一行は何人なのか聞いた。彼らは『四人』と言った。クレイボーンは、彼は一行の一人ではなく、彼ら一行が町を去るのを望んでいると言った。次いで私は彼らに言った、『諸君、君たちは郡保安官事務所に行き、君たちの武器を置き、そして私が戻るまでそこに留まっていなければならない。』私は彼らに、他の一行を武装解除するつもりだと話した。
 その時私は、アープ兄弟とホリディがフレーモント通りの南側の歩道をやって来るのを見た。彼らは郵便局とバウアーの店の間にいた。・・・私はクラントンたちに言った、『ここで待て。私は彼らがやってくるのを見た。私は行って彼らを止めるつもりだ。』・・・」

 アイク・クラントンは次のように証言した:

 「私とマクローリー兄弟とウィリアム・クラントンとビリー・クレイボーンと言う名の若者は、空き地に立っていて話をしていた、フレーモント通りの写真館と次の建物との間で。ジョニー・ビーハン郡保安官がやってきて我々に、我々を逮捕して武装解除すると話した。
 私は郡保安官に『何のために?』と言った。郡保安官は私に話した、『治安を保つためだ。』私しは彼に、私は武器を持っていないと話した。次いでウィリアム・クラントンは彼に、彼は丁度町を去ろうとしているところだと話した。郡保安官は、もし彼が町を去ろうとしているならば『宜しい(all right)』と言った。彼は次いでフランクとトム・マクローリーに、彼は彼らの武器を取り上げなければならないと言った、トム・マクローリーは、何も持っていないと彼に話した。フランク・マクローリーは、彼は町を出るつもりだが、彼の弟を殴打した一団が武装解除されるまで武器を放棄することを望まないと言った。郡保安官は彼に、彼はそうしなければならない、そして彼の武器を彼の、郡保安官の事務所に持って行き、それらをそこに置いておくと話した。次いでフランク・マクローリーは、町でしたいと思っている商用があるが、彼はアープたちが武装解除されない限り、武器を置かずに商用に行くと言った。次いで郡保安官は私に彼の腕を置き、私が武器を持っているか調べた。トム・マクローリーは郡保安官に言った、『私も武器を持っていない。』そして、コートの襟をつかんで、このように[証人はどのようにしたか示す]それを開いた。郡保安官はフレーモント通りを見て、彼が戻るまで我々にそこに留まるように命じた。」 

 これが、ガンファイトが始まる前の、クラントン&マクローリーの言動に言及した、主に「親カウボーイ」による証言の要約である。
 彼らの証言によれば、フランク・マクローリーとビリー・クラントンが町に来てアイクと合流した以降、彼らはアープ達と闘う意思はなかった。彼らは、町の不穏な雰囲気を感じて、出来るだけ速やかに商用を済ませて町を退散しようとしていたと言える。

〇H.F. シルズの証言
 ワイアットが証言でトムに言わせた言葉を除くと、クラントンたちがアープたちに対する脅しをしていたと証言したのは、H.F. シルズ一人である。

 「私は四、五人の者がO.K.コラールの前面に立っているのを見た、彼らがヴァージル・アープと持った何か揉め事について話していた、そしてその時彼らは脅しをした、即ち、彼らは彼に会ったら彼を殺すだろうと言った。その一団の誰かがその時大声で話し、彼らはアープの一団に会ったら彼ら全員を殺すだろうと言った。次いで私は通りを(東へ)歩き、ヴァージル・アープとアープたちは誰か知りたいと聞いた。路上のある人がヴァージル・アープを私に指し示し、彼は市保安官だと言った。私はそこへ行って、彼を一方の側に呼び、彼に私が立ち聞きした、この一団がした脅しを話した。彼らの一人はそのとき頭に包帯をしていた、そして葬儀の日に彼はアイザック・クラントンであると教えられた。私は彼をその一団の一人と認識した。」

 シルズは謎の人物とされている。シルズは、本人によれば、アチソン・トピーカ&サンタフェ鉄道の従業員であったが、休暇で10月25日、すなわちガンファイトの前日にトゥームストーンに来ていた。彼は関与者の誰も知らなかった。

 シルズの証言は明らかにコールマンの証言と矛盾し、どちらかが嘘を言っている(どちらも嘘を言っている場合もあり得るが)。多くくの論者は彼の証言に疑惑を持っている。にもかかわらず否定する材料がないとして、コールマンではなくシルズの証言を採用している。




ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」 [ワイルドウエスト]

ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」

 ビリー・ブレッケンリッジ (William Milton ‘Billy’ Breakenridge, 1846.12.25-1931.01.31)は、映画「トゥームストーン」(1993)で、軟弱な人物に描かれているが、実際のブレッケンリッジに対する一般的な評価は、「トゥームストーンでかつて仕えた最も丁重で控え目な治安維持官(most cordial and modest peace officer)」であった。彼は銃を最後の手段としてのみ使用したが、必要な場合には、素早く精確に使用した。

 ビリー・ブレッケンリッジは1846年12月25日ウィスコンシン州ウォータータウンに生まれた。14歳まで地元の学校に通った後、列車の中の新聞売りとして働いた。
 南北戦争中の1862年冬(15歳)に家を飛び出してミズーリ州ローラで軍需品部門の輸送隊の手伝いをした。その後、兄のいるコロラド準州デンヴァーで臨時雇いの荷馬車による物資輸送、家畜の管理、準州議会における議員奉仕係(page)などをした。
 1864年、対インディアン作戦のために百日間徴用で新たに編成された第三コロラド騎兵連隊に入隊して伝令として仕えた。この部隊はチヴィントン大佐に率いられて1864年11月29日、サンドクリークのインディアンの村を襲撃した(「サンドクリークの虐殺」)。
 1864年末に除隊後、コロラド北部、ネブラスカ、ワイオミングの境界を流れるプラット川流域で、荷馬車による物資輸送、家畜の管理、車掌などをした。1869年コロラド準州キットカーソンを訪れたとき、保安官トーマス・スミス(後にアビリーンの保安官となり、 “No Gun Marshal”と呼ばれた、1830-1870)と面識を得て、感銘を受けた。
 1870年春、デンヴァー&リオグランデ鉄道に、最初枕木材伐採の樵として雇われ、後に測量の手伝いをして測量を習い、測量技師として働いた。

 こうした辺境地での暮らしの中でブレッケンリッジは、荒野で生きる術、家畜の扱い、追跡術、インディアンの習性、銃器の扱いなどフロンティアマンとしての技量を修得していた。彼は最後の手段として、相手が撃ってきたとき以外には使わなかったが、銃の名手であった。

 1876年、アリゾナへの移住集団にガイドとして雇われ、トリニダド(コロラド)からアルバカーキ(ニューメキシコ)を経由してアリゾナ準州プレスコットに旅した。そのままアリゾナに留まり、フェニックスで荷馬車による物資輸送などに従事し、ブロードウェイ(Broadway)郡保安官の下で代理(deputy)に任命された。
 1879年末、多くの者たちと同様に銀に惹き寄せられてトゥームストーン周辺で探鉱をしたが成功しなかった。その後トゥームストーンに留まり1880年秋まで鉱山施設への木材輸送などをしていた。
 1881年1月、ジョン・ビーハン(John Behan)がコチーズ郡保安官に任命されると、ビーハンはブレッケンリッジを代理(の一人)に指名した。上司のビーハンと同様に、ブレッケンリッジは「カウボーイズ」とある程度折り合いをつけながら法を執行した。
 1881年10月26日の「O.K.コラール近くのガンファイト」当日には、彼は別の犯罪捜査でトゥームストーンには不在であった。
 1882年3月末の、モーガン・アープ暗殺に続くアープ隊とビーハンの追跡隊との「追いかけっこ」には加わらなかった。同じころに起きた鉱山会社強盗殺人犯人追跡中の3月26日、撃ち合いとなり、ブレッケンリッジの治安維持官としての経歴の中で唯一相手の一人を射殺した。

 コチーズ郡保安官代理の地位を去った後、ブレッケンリッジは一時牧場を経営し、その後1884年春、H.C. フッカー(Henry Clay Hooker)のシエラボニータ牧場(Sierra Bonita Ranch)で働いた。
 1886年、W.K. ミード (William Kidder Meade)がアリゾナの連邦保安官になると、彼はブレッケンリッジをフェニックスでの代理に指名した。同年9月、アパッチのジェロニモが最終的にマイルズ将軍に降伏したとき、ミードの指示でブレッケンリッジは逮捕状を持って軍にジェロニモ等の引き渡しを要求したが、軍に拒否された。
 1888年マリコパ郡の選挙でブレッケンリッジは郡の測量技師に選ばれた。1889年、ソルト川とヴェルデ川の流域でダムを建設するのに適した地の調査を行い、ソルト川とトント川の合流点近くの地点を選定した。彼の報告書は却下されたが、1911年、彼が選定したのと同じ地点にルーズヴェルト・ダムが完成した。
 連邦保安官代理の任期を終えた後、1892年、ブレッケンリッジはサザンパシフィック鉄道にスペシャルオフィサーとして雇われ、鉄道犯罪(主に列車強盗)の犯人追跡・逮捕に携わった。
 1903年、年齢を感じるようになったブレッケンリッジは、同じ鉄道会社のクレームエージェント(苦情処理担当)となり、1918年、72歳で引退した。

 ブレッケンリッジはトゥーソンで引退生活を送り、昔の話を語るのを好んだ。タイプライタを習得し、友人たちの勧めもあって、回想録を書いた。それは1928年、”Helldorado, Bringing the Law to the Mesquite” の表題で出版された。ワイアット・アープと彼の妻ジョセフィン・マーカスは、この本のアープに関する記述に憤慨して「大部分事実よりもフィクションに基づいている」と批判した。この本は世間的には好評を博した。トゥームスーン市は、この本に着想を得て、1929年から毎年”Helldorado Days”の催しを始め、それは今日まで続いている。

 Helldoradoとは、Hell(地獄)とDorado(黄金郷)の造語と思われるが、Wikipediaによると、当時のある鉱夫がナゲット紙に投稿した文中でトゥームストーンにつけた綽名という。

 ブレッケンリッジは第二作を構想していたが、それを果たす前に1931年1月31日に85歳で世を去った。ブレッケンリッジの墓はトゥーソンにあるが、その墓石には、彼の名が “BRECKENRIDGE” と、恐らく発音に従って誤って刻まれている。



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